「火牛の牛の計」で小田原を手にした北条早雲

2011.06.23

北条早雲(1432〜1519年。1456〜という説もある)という人物をご存じだろうか。現代の小田原を本拠地として関東一円を支配した戦国大名・後北条氏の祖だ。後北条氏とは、鎌倉幕府の北条氏と区別するためにつけられた名称で、小田原城を拠点としていたため、小田原北条ともいわれている。関東の戦国時代は、北条早雲の伊豆進攻の1491年(延徳3年)から始まり、終点は1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めでの後北条氏の滅亡時点といわれていることが多い。北条早雲の出自などに関してはいまだにさまざまな説が飛び交い、ナゾが多い人物だ。ただハッキリとしていることは、もし、北条早雲が小田原城攻めを行わなかったら、その後の小田原の発展もなかったということだ。北条早雲は暮らしやすさを考えて税を安くし、民の面倒をよくみた。家臣たちからも信望の厚いリーダーだったようだ。その関東の戦国史にとって重要な事件が、1495年(明応4年)。もう少しあとだという説もある)の早雲による小田原攻め。このとき、既に64歳たった早雲は、巧みな戦術で小田原を手にした。それが、有名な「火牛の計」だ。「火牛の計」というのは、牛に松明をつけて走らせ、敵を惑わせる策だ。実はこの戦術は、紀元前に中国で既に実践されていた。中国の戦国時代、斉の武将、田単が降伏をするとウソの申し出をした夜、敵陣に大量の牛を送り込んだ。角に短剣をくくりつけ、尻尾に松明をつけた牛の大群は、角の剣で敵を刺し殺し、尾の火で敵陣に火を放った。これをきっかけに、猛攻撃をした斉側か勝利した話が残っているのだ。日本でも源平のころ、源頼朝・義経の従兄弟だった木曽義仲(源義仲)がこの奇襲作戦を用いたといわれている。平家追討のために挙兵。平安時代末期1183年(寿永2年)の「倶利伽羅峠の戦い」では、平維盛率いる平家側か寝静まった夜、東西北の三方から鬨の声を上げた。度を失った平家の兵士たちは敵の見えない南方に殺到。そこにあった倶利伽羅峠の谷に次々と転落していき、一夜にして平家軍は壊滅してしまった。『平家物語』や『源平盛衰記』には、このときに義仲が「火牛の計」を用いたと記述されている。数百頭もの牛の角に松明をくくりつけて、敵陣に放ったと書かれているが、当時の日記類には記されていないので、この話はフィクションだという説もある。いずれにしろ、北条早雲は、この有名な「火牛の計」を知っていて、自分の戦略として用いたのではないかといわれている。